ニューヨーク、シンガポールで住んでいたころと比較して、日本の生活について考えることが多々ある。日本での生活は安全、安心できて、ご飯もおいしい。。。何不自由ないようにみえる。でも、一方で自殺者は先進国の中で多いし、幸福度が高いとはいえないだろう。
それでは、なぜ、外から見ると幸せそうな日本での生活が、実際に生活すると窮屈に感じるのか。その原因を3つ挙げてみた。最後に、これらの原因を生み出したものについても語っている。
1.同調圧力がゴイスー
よくいわれる同調圧力。これは意識せずとも日本人の身体にしみついているのかもしれない。では、どんなところで同調圧力を感じるか?
- COVID-19時は、全員マスク
- 服装がスーツ、学生服
- 意見が食い違ったら多数派または偉い人の意見に合わせる
いろいろとあるでしょう。同調するのは、時として協調性があるともよめるものの、ほとんどの場合は、積極的に同調しているのではなく、やらされ感があるのではないだろうか。こういった本音で物が言えない、行動できないというのは日々我々の心を蝕んでいく
2.遠慮を美徳化し過ぎている
日本人は、謙虚であることを重んじている。それ自体は、まったく問題ない。ただ、この解釈をミスって、常にハイハイと言っている方が良いとか、上司や先生には常に遠慮しろ、となると問題である。時として、謙虚であれ、というのは他人を自分に服従する手段となってはいないか。
遠慮が行き過ぎると、上司にものが言えない。親に言えない。先生に言えない。そうすると、上に立つ者も調子に乗って、マウントしてくる(ちなみに、私はマウントという言葉が大嫌いで仕方がない。なぜこんな言葉があたりまえになっていくのか、日本社会の変化がおそろしい)。
遠慮すればまともな意見交換もできない。これではいいアイディアも生まれない。このように、遠慮しまくることは、協調しているのではなく、上司などにとって都合の良い道具になっていないか、と常に自問する必要がありそうだ。
3.日本経済の未来が暗い
これは、もうどうしようもないレベルになってきている。日本人の力で明るくしていこうといっても限界があり、ほぼ無理な状態である。そういうことについて、だいたい若者もわかってきているのであろう。無駄に抗わず、じっとしている。ここにも遠慮して行動を起こさないということが起きている。でも、日本経済に関しては、遠慮を通り越して、何をしても無駄だというあきらめの境地がある。こうなっては、日本にいる以上、経済に未来志向を持つ人にとっては活力は得られないだろう。
最後に
では、上記3の話は政治家の話として、1・2はどこから生まれてくるのだろうか。これについては、長年(!)考えてきた結果、私は、戦争と軍隊の歴史が生み出してきたように考えている。軍隊は、今の会社や学校、家庭にまでその考え方は染み込んでいる。同調圧力や遠慮させることは軍隊において、極めて都合のいいものだったに違いない。
では、このような息苦しい日本でどうサバイブしていけばよいのか?また別の稿で書くとしよう