2021年9月11日で、アメリカ同時多発テロ事件が起きてから20年になる。アメリカでは追悼式典が行われ、祈りがささげられた。事件があった2001年、私は中学生であり、ニューヨークに家族と住んでいた。当時を振り返ると、寒気がしてあまり良い気持ちにはならないので、できるだけ考えないようにしていたが、他方で現地で体験した一人として、後世に伝える役割を担う一人として、今回は当時の状況を時系列で書き留めておくとする。
当時の私はどこにいたか
当時、私は学校の行事でマンハッタンにあるアメリカ自然史博物館にバスで移動していた。何が起こったかも知らずに…。ワールドトレードセンターがあった場所はマンハッタン島の最も南に位置していたので、79丁目近辺にある博物館とは距離はあった。しかしながら、当時のマンハッタンは、パニック状態にあり、決して安全とはいえない状況にあった。
時系列で見る当時の様子
時系列で当時何があったかの事実を見ていこうと思う。
なお、下記の時間はすべてアメリカ・ニューヨークの時間である。
- 8時46分43秒:ワールドトレードセンター北棟にアメリカン航空11便が衝突
- 9時頃:アメリカ自然史博物館にバスで出発
- 9時02分59秒:ワールドトレードセンター南棟にユナイテッド航空175便が衝突
- 9時37分:ペンタゴンにアメリカン航空77便が突入
- 10時ごろ:バスでマンハッタン島近辺に入るところで渋滞。マンハッタンに入れず。何か爆発があったもよう(運転手が警察か無線で聞いたのか)。
- 10時03分11秒: ユナイテッド航空93便がペンシルバニア州で墜落
- 10時から11時30分頃:目的地の博物館に行けなかったため、学校に引き返そうとするが渋滞で進まず。1時間くらいはマンハッタン近くにいたか。
- 11時30分~:渋滞を抜け、高速で学校方面へ。このあたりでバスの運転手がラジオをつけたところ、至る所でテロがあったことがわかる。当時、友人(TBT氏)から教えてもらい、理解。
- 12時から13時頃:高速を降りてバーガーキングに到着。昼食をとる。引率教員が学校側に公衆電話で連絡したか。
- 14時頃:学校に到着。その後教室へ。当時の担任教師による授業。なぜ本事件が起こったのか、歴史と合わせて聞く。
- 14時30分~15時30分頃:学校でテニスをして、下校時間まで待つ(当時は、学校と近隣住民の間の約束により、決まった時間にしかバスを出せなかった。)。
- 15時45分頃:生徒が下校。
- 16時20分頃:いつもどおりバスが止まるところまで母親に向かいに来てもらい、帰宅。
テロに巻き込まれた知り合いはいたか
同じ学校にいた、小学3年か4年生くらいの女子生徒のお父様がテロに巻き込まれ亡くなったことを学校の行事(2学期の終わりの式か)で知った。彼女は行事においてスピーチをしていたので印象に残っている。
ワールドトレードセンターは、マンハッタンのシンボルとも呼べるものであり、複数の日系企業も在籍していた。ニューヨークは、金融関係が多かった。私の父も金融機関に勤めていたが当時は日本に先に帰国していたため、心配はなかった。他方で、私と同じクラスの生徒の中には、父親がビルの近くで働いていたという人もいた。上記のとおりラジオで事件を知ってからは、その生徒が暗い、不安な気持ちになっていたことを覚えている。
保護者と学校の間のコミュニケーションはどうなっていたか
これは、若干想像しなければならない。母親に後で聞いた情報くらいしかないからだ。母親によれば、最初に飛行機が北棟に突っ込んだ時にテレビで放映されていたらしく、私の友人の母親から私の母親に電話で連絡がいったらしい。「テレビをつけてみて!今すごいことになっている!」
当然、保護者としては子どもがマンハッタンに向かっていることを知っていたので、学校側に連絡しただろう。しかし、子どもたちはすでに出発してしまっていて、学校とバスとの間の連絡はとれていなかったのだろう。
学校側が生徒の状況を把握したのは、おそらく引率教員がバーガーキングかどこかで学校に電話をしてからだろう。そこから、学校は、保護者達に対して、子どもは安全だと伝えたのだと思う。当時はケータイもない時代なのでいたしかたなかったか。
子どもながらに当時何を思ったか
恥ずかしながら、事件直後はあまり事の重大性に気づいていなかった。学校でテニスをしてから帰宅しているくらいである。もちろん、友達の親が死ぬかもしれないという事実は知っていたのだが、ニューヨークでは爆破事件(たとえばエンパイアステートビル立てこもり事件)もたびたびあるので、そこまで驚くべきものではないようにも思えたのである。
しかし、テロがあった後日を追うごとに現実味が増し、悲しみがやってきた。そして、それはすぐに怒りへと変わった。テロリストと彼らを支援する人たちに対してである。
私は、アメリカに5年も住んでいたので、アメリカ人ではなくても一員だという認識があった。すぐさま、「復讐」ということばが頭に浮かんできた。担任の先生によれば、「復讐は復讐しか生まない」という名言を聞き、たしかにそうだと感じ、たしか感想文的なものまで書いたが、本音は「いや、復讐すべき時もあるでしょ」というものはあった。
本事件が無差別に、何の関係もない人を巻き込んでいることも私の怒りを買った。テロの首謀者とされるウサマ・ビン・ラディンは、アメリカ人を無差別に殺害することを広めていたようだが、わけがわからない。なんの罪もないアメリカ人や、外国人をなぜ標的にするのか。どういうつもりだ。まったく理解できないし、今後も理解することはないだろう。
アメリカによる迅速な復讐劇
アメリカの動きは速かった。当時の大統領であるジョージ・W・ブッシュは、10月にもう軍隊を組成し、アフガニスタンへ向かった。
アメリカ人の団結力にも驚かされた。「個」が大事にされるアメリカは、日本のように「和」とすることは難しいと思い込んでいたが、とんでもない。日本人以上の団結で突き進んでいた。これは愛国心、テロリストに対する怒り、悲しみといったことがパワーになっていたのではないか。
グランドセントラル駅に行くと、犠牲になった人の写真が並べられており、胸がすごく苦しかったのを覚えている。二度とこのような経験はしたくない。
今、20年経って何を思うか
20年経っても、私の気持ちはあまり変わっていない。相変わらずテロリストへの怒りはある。アメリカの行動は間違っている部分もあったが、合っている部分もあったと考えている。人を殺すことは正当化できないが、成敗といったことはある程度必要かもしれない。
テロ事件後は、アラブ人への目がきつくなったこともあった。2001年から2002年、私がいた時代はかなりきつかった。今もそれは続いているだろう。アラブ人とひとくくりにしてはならない。差別を生まないように学び、また教育の環境を整えていくべきだ。
私は、当時ニューヨークに住んでいて、実際に肌で感じた一人として、本事件を後世に伝えていきたいと考えている。現地にいたからこそ、感じたこと、考えたことは多くある。ちなみに、私はテロ事件をよく知らない人にいろいろと話すことが何度かあったが、どうもピンと来ていないようだった。「映画のようだった」とか言われても私には、トンチンカン過ぎるコメントだ。というか、めちゃめちゃ他人事すぎる。日本人にテロは無関係と考えていないか。現地にいなかった人にテロの恐ろしさを伝えることがいかに大変かを感じた次第である。
最後に、テロ事件の犠牲者とそのご家族に哀悼の意を表します。みなさん、将来にわたり、本事件を忘れないようにしましょう。